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静岡県富士宮市上井出2317-1
若獅子神社に安置されている戦車を見に行ってきました。
これは、第二次世界大戦でサイパンで少年戦車兵と共に活躍した主力戦車・九七式中戦車(チハ)とのこと。
戦後、サイパンから返還された戦車の一台がここ、若獅子神社に安置されているとのことで早速この目で確認してきました。
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インターをおりて少し山側に向かって走るとこちらの神社が現れました。
周りはのどかで、どこか気持ちの良い静けさがあたりを包んでいました。
写真の石碑が比較的新しいように感じたので、それもあってかそれほどおどろおどろしい印象は受けませんでした。
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奥へ進むと、戦車が安置されていました。
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被弾跡が当時の生々しさを物語っていました。
銃口の正面に立った時、実際銃弾が発射されることなどありえないですが、でもなぜか少し怖かったです。
そこに一人で立ちこの戦車に対峙すると、まるでそれは生きててそして当時の悲惨さを私に語りかけてくるようでした。
中から兵士がのぞいているような気すらしてきました。
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車輪やキャタピラーは朽ち果てていました。
この小型戦車で、アメリカの大軍に挑んだわけですが、当時の兵士達は一体どんな思いだったのでしょうか。
戦車の大きさ、兵士の数、銃や大砲の数など、どれをとっても桁違いなアメリカ軍を前にして、一体何を思ったのでしょう。
それでもお国のために潔く散りゆくことが、兵役に付した日本男児の役目と腹を括ることができたのでしょうか。
今の私にはとてもできそうにありません。。。
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なんと、このエリア、その昔は「陸軍少年戦車兵学校」があったみたいです。
上の地図が当時の校舎などの配置ですが、見渡してみた限りでは当時の建物跡は残っていなそうでした。
しかし、これだけ広いエリアです。必ず当時の跡がどこかに残っているはずです。
次回はこの辺りをゆっくり歩いてじっくり探すつもりです。
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正門には「陸軍少年戦車兵学校」の看板が残っていました。